東日本大震災
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西條設計コンサルタントの記録
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震の概要
Overview of the 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake
名称 | 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震 |
発生日時 | 平成23年(2011年)3月11日(金) 14時46分頃 |
震源 | 三陸沖 北緯38.1度、東経142.5度、深さ24m 牡鹿半島の東南東約130km付近の日本海溝 |
規模 | Mw9.0(国内観測史上最大。USGS(アメリカ地質調査所)によれば、世界の歴代地震の中で4番目の規模。) 断層の大きさは、長さ約450km、幅約200km |
メカニズム | プレート境界型地震 |
発震機構 | 西北西-東南東方向に圧力軸を持つ逆断層型(CMT解) |
震度 | 震度7 宮城県北部 震度6強 宮城県南部・中部、福島県中通り・浜通り、茨城県北部・南部、栃木県北部・南部 震度6弱 岩手県沿岸南部・内陸北部・内陸南部、福島県会津、群馬県南部、埼玉県南部、千葉県北西部 (岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉の8県で震度6以上を観測) 地震の連動により強く長い揺れが約3分間継続。 本震から1時間以内に深度5弱以上を9回、24時間以内に16回観測。1か月以内にM6.5又は深度5弱以上を52回観測。 |
地殻変動 | 国土地理院は、GEONET(GPS連続観測システム)で得られた電子基準点の観測データを解析。 電子基準点牡鹿において、最大で水平方向に約5.3m、上下方向に約1.2mの地殻変動を観測したと発表。 なお、気象庁によれば、断層のすべり量は、最大20~30m程度。 震源直上の海底の移動量は、東南東方向に約24m移動、約3m隆起。 |
津波 | 地震の連動により2段階に津波が発生し、合成波となった大津波が環太平洋地域を中心とした世界各国に到達。 浸水面積は561km2、最大6m内陸まで浸水 検潮所で観測された津波高の最大値は、福島県相馬の9.3m以上 津波遡上高の最大値は、岩手県大船渡市の40.1m (震央に最も近い石巻市鮎川検潮所の干潮時刻は13時22分) |
電子基準点1秒データによる東北地方太平洋沖地震の地殻変動の時間発展(動画)(出典 国土地理院ホームページ)
- 地震波は、震央(星印)からほぼ同心円状に広がる。
- 震央に一番近い牡鹿半島周辺では、東向きの地殻変動が1.5m程度にまで成長した後、20秒ほど停滞。その後、約40秒で5mを超える地殻変動に至る。
- 14時48分50秒から14時50分00秒にかけて、関東地方から東海地方に伝わる大きな揺れが明瞭である。
- 牡鹿半島では、本震発生の2分後に地殻変動がほぼ収束するが、その周囲では大きな揺れや地殻変動が続いている。
- 本震の4分後には、地図の範囲内の大きな揺れは収束しているものの、関東平野や越後平野などでは依然として小さな揺れが続いている。
この動画は、東北地方整備局の震災伝承館に保存された動画を編集したものです。
※津波の映像や音声が含まれますので、希望される方のみご視聴下さい。
東日本大震災の概要
Overview of the Great East Japan Earthquake
名称 | 東日本大震災 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震及び津波、東京電力福島第一原子力発電所の事故による被害の総称 |
被害状況 | 死者15,900名、行方不明者2,520名(2024年3月8日警察庁) 関連死を含む死者数は19,775名(2024年3月8日内閣府緊急災害対策本部) 自然災害による死者・行方不明者数は戦後最多 (1923年9月1日の関東大震災は死者・行方不明者数合わせて105,385名_国土交通白書2021) 建築物の被害は、全壊122,050棟、半壊283,988棟(2024年3月8日内閣府緊急災害対策本部) (1923年9月1日の関東大震災は全壊293,387棟_国土交通白書2021) 東京電力福島第一原子力発電所の事故(原子力災害対策特別措置法が適用) (宮城県内の被害状況) 死者9,639名、関連死932名、行方不明者1,215名(2024年3月8日宮城県) 建築物の被害は、全壊83,005棟、半壊155,131棟(2024年3月8日宮城県) 最大停電戸数 1,545,494戸、全35市町村で給水に障害が発生、12市町でガスの供給に障害が発生(宮城県_東日本大震災の概況) 避難所数は最大1,323施設(2011年3月15日)、避難者の数は最大320,885名(2011年3月14日)(宮城県_東日本大震災の概況) |
推計被害額 | (全国) 16.9兆円(2011年6月24日内閣府(防災担当)) ※阪神・淡路大震災(約9.6兆円)の1.7倍以上の被害額(国土交通白書2021) (宮城県) 9.09兆円(2021年9月30日宮城県) |
災害廃棄物 | 宮城県内の災害廃棄物推計量は1,111万t、津波堆積物推計量は758万t(東日本大震災における災害廃棄物処理について(概要)H26.4.25環境省)(災害廃棄物推計量1,111万tは、宮城県が1年間に排出する一般廃棄物の約13倍) 宮城県石巻市の災害廃棄物推計量は約629万tで、通年のゴミ処理量の108年分に相当。 |
部隊派遣 | 警察庁 広域緊急援助隊等 約1,421,200名(2019年3月21日をもって派遣終了) 消防庁(緊急消防援助隊) 総派遣部隊8,854隊、総派遣人員30,684名(派遣期間:2011年3月11日~6月6日(88日間)) 海上保安庁(これまでの対応勢力総数) 巡視船艇等 102,978隻、航空機44,296機、特殊救難隊等2,558名 防衛省(大規模震災災害派遣) 延べ人員:約10,580,000名(1日の最大派遣人員約107,000人) 派遣期間:2011年3月11日~8月31日(174日間) 厚生労働省 医師等の派遣:累計2,720チーム・12,385人、 保健師派遣:累計230チーム・11,267人 (2024年3月8内閣府緊急災害対策本部) |
海外支援 | 163の国と地域及び43機関が支援を表明 29の国と地域・機関から救助隊による支援を受け入れ 64の国と地域・機関から救援物資を受け入れ 95の国と地域・機関から寄付金を受領 米軍による支援(Operation Tomodachi) 空母約20隻、航空機約160機、人員約20,000名以上 (2024年3月8内閣府緊急災害対策本部) |
以上のデータは、内閣府、警察庁、気象庁、国土地理院、東北地方整備局、宮城県、石巻市等が公表した資料に基づきます。
記録
Records
3月11日
5名が外出。
社内にいた者は、揺れが収まってから駐車場へ退避。外出者5名に連絡し無事を確認。
打ち合わせの2名はすぐに帰社。
現場の3名は、すれ違ったダンプの運転手さんから「津波が来るから山に逃げろ」と言われ、付近にいた住民の方と車で山に避難。(現場は浸水域でした。)
停電、断水、固定電話は不通、携帯電話は通話制限、連絡手段無し。
翌日からは、出社できる者のみ出社することとして17時頃解散。
現場の3名は、津波が引いた19時頃帰社、その後帰宅。
3月12日
出社できた15名で社内の片付け。
情報が何も入ってこないため、13日は自宅待機とした。
3月13日
1名が出社し、測量倉庫の片付け。
午前中、国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所の職員の方が2名で来社、津波痕跡調査の協力要請を受ける。
電話が使えなかったため会社に近い社員宅をまわり、4名で午後から打ち合わせ。
3月11日以降、周りの状況が全く分からなかったが、初めて現状の一端を垣間見たのが打ち合わせに向かった北上川下流河川事務所。
事務所に向かう車内から見える津波の遡上痕跡、浸水した住宅地や水田、行き場を失い堤防にあふれかえる被災者がそこにいた。
事務所に着くと、調査業務では私たちが最初の打ち合わせとのこと。「大変な時に来てくれてありがとう」と感謝される。
事務所では、非常用の発電機が稼働しており、パソコンなども使用できる状態。
新北上川の水位計のデータを見せていただいたが、水位が6mを超えたあたりで途切れていたのを覚えている。
(この時、既に他の地方整備局の方が事務所にいました。)
(石巻市)
宮城県石巻市は、県内第2の人口を有する都市。平成17年4月1日の広域合併(石巻市、桃生町、河南町、河北町、北上町、雄勝町、牡鹿町の1市6町の合併)により、市域は北上川下流の仙台平野(石巻平野)から、女川町を除く三陸海岸南端(牡鹿半島)一帯まで広がった。市街地は主に旧北上川河口に広がり、旧北上川の中州である中瀬地区からJR石巻駅にかけての地域がいわゆる中心市街地であり、古くからの商店や専門店が集積している。旧北上川河口部左岸には魚港、河口部右岸には工業港がそれぞれ形成され、主要な産業である水産業と、造船業、紙パルプ業などが盛んである。
東日本大震災では石巻市の主要産業の根幹をなし、経済活動を支える沿岸地域が壊滅的な被害を受けた。
(国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所)
宮城県石巻市蛇田にある北上川(宮城県分)・鳴瀬川の管理事務所。海岸線から直線距離で約3.3kmに位置する。事務所南側にある北北上運河の存在により直接の津波被害は免れたが、最大の被災都市と言われる石巻市にあり、発災後、最も困難を極めた事務所の一つ。
3月14日
前日に依頼を受けた旧北上川の上流から津波痕跡調査を2班6名体制で開始(3月11日に大津波警報が発令され、後に津波注意報に切り替わるが、14日朝の時点で注意報は継続していたため上流から調査)。
携帯電話が使えるようになるまでは、朝夕の2回打ち合わせ。
出社した残りの12名で社内外の片付けと、災害対応の準備開始。
1名の従業員から水の提供を受ける。
11日の帰宅後、連絡が取れない3名に対し電話あるいは直接伺い、家族の安否確認を行う。
従業員2名の家族全員の無事を確認。未確認の残り1名は後日連絡があり、自宅は津波により流出したが、家族全員の無事を確認。
帰宅困難となっている社員家族の救出開始(周辺が水没し孤立した高等学校があった)。
給油可能なガソリンスタンドを探し始める。
3月15日
6名で情報収集や安否確認。
宮城県東部土木事務所の職員2名が来社し、応援協力要請を受ける。
津波痕跡調査班は、この日初めて津波浸水域へ向かう。
3月16日
降雪につき現場作業を中止。
久しぶりに新聞が届く。この時初めて福島第一原子力発電所の事故を知った社員も多かったと思う。
帰宅困難となった社員家族の救出完了。
宮城県東部下水道事務所にて災害対応の事前打ち合わせ(宮城県東部土木事務所が津波により浸水したため、同事務所を仮事務所として使用)。
市内同業者の状況確認。2社が津波により全壊、3社が床上浸水。
宮城県の職員の方から高速道路の長者原SAで給油ができるとの情報をいただき、給油開始。現場作業の帰りにSAへ(災害対策車両のみ給油が可能だが、20Lの給油制限有り)。
3月17日
宮城県東部下水道事務所にて打ち合わせを実施し、調査範囲等を決定。
宮城県の業務に関する災害対策車両証の証明申請を行う。
3月18日
車とバイクを使い、県道の被災状況調査を8名で開始。
午後、宮城県東部土木事務所から河川の被災状況調査依頼と現場案内を受ける。
3月19日
宮城県管理河川の被災状況調査を4名で開始。
3月20日
津波痕跡調査、県道被災状況調査、河川被災状況調査をそれぞれ実施。
ガソリン安定供給の目処が立たないため、通勤に社用車の使用や、各自乗り合わせなどを実施。
3月21日
水道が復旧した従業員から水を分けてもらう。
予定していた新入社員へ、入社式を延期する旨連絡。
この日、停電から復旧。と同時に残業の始まり(停電中は暗くなる前に全員を退勤させていました)。
3月22日
県道被災状況調査終了。調査結果のとりまとめ、概算被害額算出に着手。
3月23日
水道が復旧。
3月24日
県道被災状況調査の成果74km分を提出。
3月25日
災害査定に向けた打ち合わせ実施。
災害査定設計書作成に向けた資機材購入の段取り開始。
2機関より応援協力要請あり。
3月29日
河川被災状況調査の成果95km分を提出。
4月1日
閣議により、東北地方太平洋沖地震による災害及びこれに伴う原子力発電所事故による災害を「東日本大震災」と呼称することとされた。
4月4日
全社員が出社。
新入社員入社式開催。(新入社員は翌日から早速現場へ)
The Day
2011年3月11日14時46分。私は石巻市役所にいました。
14時30分から職員の方と打ち合わせの予定でしたが、担当の方が来客に対応していたため、長椅子に座って待っていました。
そして14時46分頃。これまで感じたことの無い揺れが始まります。
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震の発生です。
壁を押すような態勢でこらえようとしましたが、飛ばされます。
揺れが収まってから、職員の方に「また来ます」と言って、立体駐車場に止めた車に向かいます。
駐車してあった車は地震の揺れで勝手に移動していましたが幸い無傷。
エンジンをかけると、大津波警報が発令されたとの情報。この時、初めて津波をイメージしました。
会社も自宅も内陸にあったので早く戻ろうと思い、車を走らせます。
倒壊した建物や落石で道路がふさがれていたり、水道管が壊れて水浸しになっていたり、電線が破断していたり。
信号は消えて道路は大渋滞でしたが、交差点では譲り合って通行していました。
石巻市役所を出て5分ほど走ると、大粒の雪が降ってきました。
世界の終わりを想像させます。
みんなに怒られそうですが、会社に戻る前に自宅に寄りました。
電話で妻と子供の無事は確認していましたが、安心したかったんだと思います。
「しばらく帰れない」と告げ、会社に戻ります。
すでに、腹をくくっていました。
会社に戻ると、社内はぐちゃぐちゃで、みんな騒然としています。何が起きたのか理解できません。
みんな家族が心配です。家族と連絡が取れない方は特に。
翌日以降は、出社できる方だけ出社することにして、解散しました。
というわけで、「しばらく帰れない」と告げたばかりの家に帰ります。
プライベートの事は、正直あまり覚えていません。
家族には、苦労をかけたなと思います。
これまで何度か、東日本大震災の経験をお伝えする機会をいただきました。
聴講していただいた方にお伝えしていることは、色々とあります。
何が一番大切ですか? と質問されることもありましたが、正直言ってわかりません。人それぞれ大切なことは違います。
なので、「自分が一番大切だと思えることが、一番大切だと思います。」と訳の分からない答えを返していました。
被災の程度は違いますが全員が被災者と呼ばれ、現場で何が起きているのかもわからない状況下、どう仕事をすべきだったのか、そもそも仕事をさせて良かったのか、他にもっとすべきことがあったのではないか、としばらくの間は考えていました。
答えは見つかりません。というよりも、答えは無いのかもしれません。
沢山の人が様々な想いを抱いて生きている。
当たり前ですが、これを忘れないことが大切かもしれません。
いつも最後にお話するエピソードがあります。
ろうそくレストランへようこそー!
停電中は、テーブルにロウソクを立てて夕食をとっていました。
当時3歳だった息子は、その光景をこう表現したんです。
私たちは、あのような過酷な状況の中、思いやりをもって秩序を保ち、助け合い、譲り合いの精神を忘れなかった日本人の心の豊かさを未来を担う子どもたちに繋いで行かなければなりません。
それが東日本大震災を経験した私たちの使命であり、今を生きる私たちの使命である。
私はそう思っています。
代表取締役社長 西條祐樹
以下の写真・動画(容量の関係で低解像度にしています。)は、弊社が撮影したものです。希望される方のみご覧下さい。